当時、国道沿いの団地に住んでいていつも国道を走る自動車を眺めるのが 好きで(暗っ)、特にスポーツカーが好きだった私は1976年、日本で初めて F1が開催された富士スピードウェイのレースは(TV放送されたかどうかは知 らないが^^;;)後日知ったものの翌年の77年のTV放送はしっかりチェック! 画面に釘付けでした。しかし残念ながら、このレースでは悲惨な事故が起こっ てしまったのです。スタート数週後の第一コーナーで当時話題の6輪F1カー、 ロニー・ピーターソンが運転するタイレルP34と現在、F1で活躍中のジャック・ ヴィルヌーブの父親、ジル・ヴィルヌーブの乗るフェラーリが接触、フェラーリが 宙を舞い、立ち入り禁止区域に入り込んでいた観客とそれを注意していた警備 員の所に、、、不幸にも数名の方が亡くなりました。この事故は「跳ね馬(これは フェラーリの紋章の事)、宙を舞う」等と報道され、話題になりました。 |
この当時のF1ドライバーではフェラーリに乗る不死鳥ニキ・ラウダ(大事故で 大火傷を負うもすぐに復帰し、レースに優勝するといった離れ業をした!)、 マリオ・アンドレッティ(ロータス)、ジェームズ・ハント(マクラーレン)等が活躍。 私はJPSカラーのロータスに乗るマリオ・アンドレッティのファンでした。 76年の富士のレースでは大雨の為、危険と判断したニキ・ラウダはシリーズ チャンピオン争いしているにもかかわらず、数周で棄権、マリオ・アンドレッティ が優勝、ジェームズ・ハントがチャンピオンに逆転決定。ラウダの「ドライバーは 危険だと感じたら走らない勇気も必要だ」とコメントしてたのが印象的でした。 |
当時話題が持ち上がったF1カーは何と行っても6輪のタイレルP34と言うマシン。 前輪の空気抵抗を少なくする為に小さくしたタイヤと、路面のグリップ(食いつく力) 向上に4本も装着すると言った画期的なアイデアが盛り込まれたマシンで、他チーム も開発をしていた様ですが構造の問題点などからこれ以降は開発されませんでした。 |
この時代からF1はグランドエフェクト(空力)を利用した構造に変わっていきます。 いわゆる”ウィングカー”と言われている物で、飛行機の羽を逆さまにした様なもの を利用して地面に押し付ける力でコーナリングスピードを上げる、と言った物です。 しかしながらスピードが年々上昇するF1は「走る棺桶」とも呼ばれ、事故が起きた 場合は死を覚悟しなければならない様なものまでに。 1978年のレースでロータスに乗るマリオの同僚、ロニー・ピーターソンがスタート 直後に事故に巻き込まれ、炎上。救出されるも後の手術の不手際から命を落として しまうのです。この年はチームロータスは絶好調でエースドライバーのマリオと サポートするロニーの1−2フィニッシュ等、優勝街道まっしぐらだっただけに、この年、 チャンピオンに就いたマリオには笑顔はありませんでした。 数年後、グランドエフェクトカーは危険との判断で禁止へ、フラットボトム(平面な床)に。 |
グランドエフェクトカーの代表作、ロータス78 | マリオとロニー |
1977年の富士での事故をきっかけに日本からF1は遠のいてしまいました。 当然地方に住む私の情報源は雑誌オンリー((^^;。オコズカイに余裕のある時には 購入、ない時は立ち読み(笑)雑誌の発売日が待ち遠しい日々だったりして(^^)。 当時の日本のモータースポーツの最高峰はF2(F1の下のカテゴリー、現フォーミュラ・ ニッポン)。ベテランの域に達した星野一義と新人の中島悟が台頭してきた頃ですねい。 エンジン革命、ターボエンジン時代到来。 ターボエンジンが使われるようになってきました。ターボって何?と思ってる方に 簡単にご説明((^^; エンジンの排気を利用して扇風機を回します(ターボの事ね)その扇風機から発生 した風(空気)を強制的にエンジンに吸気させ、爆発的なパワーを発生させる。 といったものでしょうかね?((^^;当時はまだまだ開発が遅れていて、フランスの ルノーエンジンのみターボを利用してましたが台頭するには時間が掛かった様です。 排気量も3000ccの自然吸気エンジンに対して、開発中のターボエンジンは2倍換算 され、1500ccと、不利な点もありました。しかし、日進月歩のF1技術、時代はターボ エンジンに移行してルノーエンジンは一時代を築きます。頑なに12気筒エンジンで 踏ん張っていたフェラーリもついにはターボエンジンに着手、ルノー・フェラーリ・BMW等 のターボ対フォードのNA(自然吸気)という図式が長年続きます。 |
VS | ||||
ルノー | フェラーリ | BMW | FORD |
この頃活躍していたドライバーはケケ・ロズベルグ(ウィリアムズ)、ネルソン・ピケット(ブラバム)、 ナイジェル・マンセル(ロータス)、アラン・プロスト(ルノー)。当時F3から上がって来た新人、 アイルトン・セナ(トールマン)は少々荒っぽい運転が他のドライバーから非難を受けていた 様子、当時マクラーレンに乗っていたニキ・ラウダからコースで”お説教”を受けたりしてね((^^;) |
この頃私は、九州の南地区で貧乏学生生活を送っておりまして((^^;)、情報量は更に乏しく なっていきましたが、雑誌に投稿したのをきっかけに、何と!米国に住む日本人の方から お便りを頂きまして、こちらから日本の番組を録画したビデオを送る代わりに米国で放送 されるF1等のモータースポーツビデオを送ってもらうと言った”ビデオ交換交流”開始! 解説の英語なんてどーでもいい!走っているF1が見れるだけで至福の歓びでした(笑) ターボエンジンのF1は当然スピードも段違いに速いのですが、その脆さも露呈します。 好調にトップを走っていたのに白煙を上げてエンジンブローするシーンはしばしば見られ ました。それに燃料をバカ喰いするターボエンジン。ゴール目前にガス欠でストップ、ゴール ラインまでドライバーが後ろからマシンを押す等といった光景も、、、(^m^)。ドライバーの体 にも負担が結構掛かっていた様で、ネルソン・ピケットが表彰台で倒れたり、脱水症状の ナイジェル・マンセルがゴール前でガス欠になったマシンを押しながら失神、なんて事も、、 |
ターボF1全盛期に日本のホンダがエンジン供給という形で復帰。 当時、欧州F2でホンダエンジンをチャンピオンに導いたスピリット・チームのマシンを改造してテストを繰り返し、1968年に撤退して以来のカムバックを果たします。後にウィリアムズ チームで開発を続け、チャンピオンを争うまでの力を付けてきます。日本ではロータスのF1を テストドライブした事で日本人F1ドライバー誕生か?と騒がれていた、F2ドライバーの中嶋悟が エンジン開発担当ドライバーを勤めていました。始めは(当然のことながら)優勝するまでの力は 持っていませんでしたが、ジワジワとその技術開発力で力をつけ始めてきます。 1984年のアメリカ・ダラスGPに於いて実に17年振りの優勝を果たします。 |
| F1チャンピオンシップに復活した時の マシン。スピリット・ホンダ |
ルノー | ロータス | フェラーリ |
アロウズ | マクラーレン | ウィリアムズ |
リジェ | ブラバム | ザクスピード |
日本人F1ドライバー誕生。 当時最強と言われていたマクラ-レンに搭載されていたTAG(ポルシェ・ターボ)エンジンに対抗できるのはホンダエンジンと推測したチーム・ロータスもルノーエンジンからホンダ エンジンに鞍替え、同時に日本のトップフォーミュラを席巻していた中島悟がロータスの シートを獲得。日本人初のF1フル参戦ドライバーが誕生しました。チームカラーも今まで 御馴染みになっていた黒いボディに金の文字のJPSカラーから一転して黄色いボディに。 ナイジェル・マンセルとネルソン・ピケットが運転するウィリアムズ・ホンダが1−2フィニッ シュで連勝中にアイルトン・セナが食い込むと言った展開を見せていました。87年の英国 GPでは中嶋悟が4位に入賞して、ホンダが1〜4位を独占するといった快挙も。 |
またまた年々スピードが上昇して危険度が増してきたF1。 ターボエンジンも使用禁止に。変わって3500ccのNA (自然吸気)エンジンに統一されます。 中嶋悟のロータスチームはホンダエンジンを失って、非力な JUDD(フォードエンジンの改造メーカー)エンジンを使用して 苦戦を強いられます。また、NAエンジンになってもホンダ エンジンはマクラーレンでの最強時代を維持しますが2人の トップドライバー、アラン・プロストVSアイルトン・セナの確執が 表面化。プロストはフェラーリに移籍後も、チャンピオン決定戦 の鈴鹿GPで接触(これは一部ではセナの”前年度のお返し” とまで言われた)するなど不仲説が続いた。NAエンジンになって 巻き返ししてきたのがフォードとルノーの両陣営。ルノーエンジン を使用するウィリアムズ・チームはナイジェル・マンセルで、 フォードエンジンで力を付けて来たベネトン・チームは新人 ミヒャエル・シューマッハを擁してトップ争いに加わる。 |
中嶋悟の後に続いてF1ドライバーになった鈴木亜久里・片山右京・中野信治・高木虎之介らは 目立った結果を残す事が出来ないままシートを失う。数年は日本人ドライバー不在状態に。 ホンダ撤退、ルノー対フォードの時代に。 1992年を最後にホンダがGPから姿を消す、変わりに”無限ホンダ”(エンジンチューナー)が活動を続行するも勝利するまでには至らず、、、。チャンピオン獲得に一番近いチームの ウィリアムズにアイルトン・セナが移籍。しかし94年のイモラGP、スタート直後の事故で死亡、 英雄の他界はF1界に衝撃を走らせる。セナ亡き後、F1界を引っ張るのはベネトンチームの ミヒャエル・シューマッハとウィリアムズのデーモン・ヒル。NAエンジン時代に唯一ターボエンジン で闘っていたルノーと、NAエンジンの先駆者フォードの戦い、また、父親に名ドライバーの 故グラハム・ヒルを持つデーモン・ヒルと”鉄人”シューマッハのバトルは毎回見ものでした。 また、名ドライバー、故ジル・ヴィルヌーブの息子で米国インディCARTチャンピオンの、ジャック・ ヴィルヌーブがウィリアムズチームに加入、2年目にはチャンピオンを獲得。 |
マクラーレン復活&フェラーリの逆襲! F1のスピード減速化を図ってエンジンも3000cc、更にはタイヤには溝を入れる規定が盛り込まれる。GPに於いて長年チャンピオンから遠ざかっていたフェラーリは チャンプ奪回の為にシューマッハを獲得。シューマッハ主導の元にチーム改革を行っ ていく。その間にこれまたホンダエンジンを失って苦戦していたマクラーレンチームは ミカ・ハッキネンと共にメルセデスエンジンを熟成させて台頭してきた。名門2チームの フェラーリ対マクラーレン、シューマッハ対ハッキネンの2強時代に突入。 この2人、実はF3時代のライバルでもあった。F3時代、マカオGPでトップ争いをしていた 2人は接触するも、優勝したシューマッハはF1に、無念にもリタイヤしたハッキネンは F1の道を閉ざされてしまうといった歴史があったのだ。ハッキネンは98年、99年、 シューマッハは00年、01年にタイトルを獲得。また、F1から姿を消していたBMW エンジンがウィリアムズに供給再開。ミヒャエルの弟、ラルフ・シューマッハと米国の インディCARTチャンピオンのファン・モントーヤがマシン開発を重ね、低迷していた ウィリアムズチームを再びトップチームへと押し上げてくる。 |